起業をお考えの方へ

ここで絶対に負けないぞ!

脱サラ~起業、夢物語は一旦どん底へ・・・

北風がピューと吹き抜ける、2000年の年末に私の起業の証となる自分の店舗を福岡市中央区役所前のメイン通り「明治通り」沿いにオープンさせました。

福岡ソフトバンクスホークスが日本一になり、何度も優勝パレードでこの通りに紙吹雪が舞いました。福岡で、いや九州で一番のメインの通り沿いで自分の店舗が持てる、数多くのビジネス系や一般の方々に触れ合うことができることが、私にとって一番のやりがいでした。

オープンにこぎつけるや否や、私は死に物狂いで商品ラインアップと販売価格設定、人材雇用とスタッフ教育、広告宣伝など一連の業務を精力的に成し遂げていきました。これらの勢いのお陰なのか、それまでスポットライトがほとんど当たらなかった「はんこ」が、新聞やテレビでなどでクローズアップされたり、有名人の来店などでスタッフの士気も高まり、それがお客様に自然と伝わり日々の業務は溢れんばかりの活況で満たされていました。

それから年月が流れた2008年のリーマンショックから1~2年ほど経過した時期、福岡の中小企業にもそのリーマンの影響が出始めた時期に張り詰めていた緊張がガタガタっと音を立てて崩れていくように売上急降下、数名いた社員もたった1人になってしまったのでした。

自分自身のキャリアを回想すると、1980年代後半から1990年代前半の所謂、バブル期に社会人デビューした私の中には、仕事というものは「売上を多く上げること」、これしかなかったのでした。 そして、会社経営をする中で、商品を購入して頂くお客様は大切にしますが、お客様と同等かある意味それ以上に大切にするべき社員をまったくといっていいほど大切にしていなかったのでした。

どん底からの這い上がり・・・

売上高はそれまでの半分ほどに落ちてしまい、5人いた社員も1人になり、4人の大切な社員はすべて会社を離れていってしまった現実を突きつけられて、「一体全体、自分は何がしたいのか!」と真剣に考えることになったのでした。 何のためにこの仕事をしているのか、仕事をするとはどういうことなのか、自分は世の中でどう役に立っていくのか・・・。

このままでは会社ごと消えてなくなってしまう。私は迷わず事業の再構築に着手しました。手始めに経費削減として、このメイン通り「明治通り」沿いの20坪の思い入れの深い、また売上に非常に貢献してくれていた場所(店舗)を離れることから考えました。起業してから10年を越す年月を重ねてきた場所から離れることに言葉では言い表せないようなモノがありました。自社の経営そのものが、10数年という長い年月で培ってきた1階の店舗を活用した商売の形式に自然となっていました。

自社の経営状態を今後、良好に保つためには、これまでの店舗家賃を最低でも3分の1以下に抑えなければなりません。その店舗家賃に見合うスペースをこれまでの店舗近郊で探すなら2階以上の空中階の選択しかありませんでした。 真夏の強い日差しが照りつける中、スタッフと共に何軒も何軒も条件に叶う物件を探し続けました。

一旦は地に落ちてしまった私の事業に対する前向きな気持ちは、私の顔色を曇らせていました。しかし、当時1人会社に残ってくれた女性社員はそんな私に対して、「きっといい物件が見つかります。今まで以上にもっと頑張りましょう」と明るい笑顔を見せてくれたのでした。私の中で燻っていた事業継続の迷いは、彼女のこの一声で澄み切った、前向きなものになりました。

心を入れ替えて再び前へ・・・

そして、そもそも何のためにこの仕事をするのか、弊社の経営理念をこの時期に改めて考えることとしました。

  1. 何のために経営しているのか
  2. 我が社の固有の役割は何か
  3. 大切にしている価値観・人生観
  4. 顧客、取引先、仕入先に対する基本姿勢
  5. 社員に対する基本姿勢
  6. 地域社会や環境に対する基本姿勢
  7. ワクワク・ドキドキ感動すること

詳細に分けて基本的な部分を押さえた上で、「起業家・経営者の成功を支援する」と企業理念を掲げました。 そうこうしていると、不思議に自社のロゴマークをデザインしてみたくなったのです。従来のそれは今になって思えばどういう経緯で製作したのかもほとんど覚えていないものでした。経営理念を自分たちで深く考え込み、ロゴマークをデザインすること、企業理念を目に見える形にしたものが、自社の看板商品である印鑑であり、ロゴマークであると改めて理解したときはとても不思議な気持ちになりました。

「ここで絶対に負けないぞ」と事業の継続を心に決めて、そして幸いにも最悪の状況下で1人会社に残ってくれて、私を励ましながらも自分自身も精一杯の力を出し切ってくれた彼女がいたからこそ今日があると感謝しています。彼女がいなかったら私1人では恐らく事業の継続は不可能だったかもしれません。