第14回  おかはち事務所 岡部 八郎様

-育ててくれた、 福岡の街に 恩返しをしたくて –

おかはち事務所代表 コピーライター

岡部八郎様

ウクレレラジオDJ

コピーライターとして、またウクレレラジオDJとしても活躍されている、おかはちこと、岡部八郎様にお話しを伺いました。ラジオ番組に出演していた時のことや福岡に対する思いや、これからの目標などのお話をしていただきました。

コピーライターに変身。ユニクロ柳井さんに出会った奇跡。

ふたつの高校に行ったり、専門学校も中退した中途半端な20代だったので、普通に就職することは考えていませんでした。高校時代からギターで弾き語りをしていたこと、オリジナルで歌を作っていたこともあり「言葉」を使った仕事をしたいと思っていました。日本語が話せる、書けるならコピーライターだったらなれるのではと、考えたことがコピーライターを目指したきっかけでした。

どこか事務所に入らなくてはと思い面接を受けましたが、どこの面接でも経験者しか募集していないと断られました。大名にある事務所で面接を受け、給料はなくても良いから働かせてほしいとお願いしてやっとコピーライターとして働き始めました。23歳のときでした。

給料をもらえるようになった頃、自分にはコピーライターの師匠がいて、そこで仕事をしていました。師匠に独立したい事を伝えると、今の給料の3倍稼げるようになれば独立しても良いと言われました。そこから、昼はコピーライターとして仕事をし、夜は会社に内緒でデザイン事務所でコピーライターのアルバイトをする生活が始まりました。

1年半ほどその生活が続きました。今までで一番苦しい期間でしたが、自分自身の成長の糧となった期間でもあったと思います。言われた通りに3倍稼ぐことができ、師匠から独立しても良いという許しをもらったので、自分で会社を立ち上げたのです。このときが28歳でした。

調子に乗って!?株式会社ロッカーズという会社を立ち上げ、アシスタントも2人雇いました。しかしレギュラーの固定収入がないことが経営を不安定にしてしまい、アシスタントを雇用しながら会社を続けていくことが難しくなってきました。会社設立から2~3年経った位の時期で、アシスタントの人たちには次の就職先を見つけてもらって、自分はひとりで再出発することにしてロッカーズを解散する事にしました。
その後、ご縁があって、ユニクロの社長(当時は山口県宇部市の小郡商事)の柳井正さんと出会いました。福岡コピーライターズ審査会に、東京から特別審査員で来ていたのが糸井重里さん。「わぁー、この作品、よく書けてるねー」とほめられ、年間最高賞をとったことを柳井社長が知り、会いたいといわれ山口県の宇部へ。ユニクロのいちばん最初のコンセプトワードは、『衣、飾、自由』でいかがですか?と提案すると、いたく気に入っていただきプロジェクトメンバーに入れてくれました。その模様は、柳井正さんの本『一勝九敗』の冒頭、に書いてあります。ユニクロのオープニングの広告計画、コピー表現を広島袋町1号店から80号店の静岡店まで、6年近くまかされました。いまをときめくユニクロのスタートに関わったことは、誇りであり奇跡です。糸井重里さんにあらためて感謝です。

 コピーライターからラジオDJへ。

ひとりで仕事を始めたある時、コピーライターの仲間から地元の民放ラジオ局の企画会議に参加しないかと誘いを受けました。ラジオが好きだったので、喜んで参加して秋のラジオ番組の企画を考える事になりました。いざ企画が進んでくると、声が良いからという理由から実際にラジオで話す方をしてみないかと言われました。パーソナリティーなどしたことがなかったので最初は断りました。
しかし、大学の放送部で活動している現役の女子大生と一緒に出演できるという条件を聞いて引き受けることにしました(笑)

このときからラジオの仕事に携わるようになりました。FM福岡のディレクターになり、朝の帯番組ガンボ!(生放送)に、パーソナリティとして抜擢されました。それから足掛け7年間、パーソナリティーとして頑張ることができました。
その後はラジオ、テレビと様々な番組に出演し、今までに地元福岡の全てのラジオ局でレギュラー番組を持つことが出来ました。
ちなみに今ではお馴染みのウクレレは、番組で取材に行くとき、手ぶらでは寂しいのでなにかないかと探して見つけたのがきっかけでした。ギターで弾いていた曲をウクレレで弾いていました。

ラジオを聴いているリスナーの人へは、言葉を伝える事ができます。例えば「赤」という言葉でも、「燃えるような赤」なのか「りんごのような赤」なのか、リスナーは言葉を聞いて想像することができます。活字を聞くことで頭が活性化することにも繋がるし、実際に目で見て、ラジオで聞いたものがどういうものだったのか知る事ができる。テレビでは映像を流すので見た瞬間で終わってしまうのです。ラジオは聞いて、実際に見ることで2回発見ができる。そんな空想する、想像する楽しさがあるメディアだから、ラジオはまだまだ魅力的なんです。

 好奇心のアンテナを誰よりも高く。

ラジオやテレビへ出演したことで、いろいろな場所へ取材にいくことが増えました。今は観光地など直接行かずとも、ネット検索でサッと調べられてしまう時代です。しかし自分は現場へ実際に行き、そこで見たものや感じたこと、どんな人がいたのかを直接自分の言葉で伝えることしか出来ないと考えています。だから番組に出演している頃から必ず現場へ直接行っていました。同じ業界で働く人からはとってもアナログな、面倒くさいパーソナリティーだと思われていたかもしれませんね。

自分には女性的なおばちゃんのようなところがあります。人が集まる場所などにとても興味があります。例えばデパ地下など好きで良く行きますね(笑)
コピーなど広告を作る仕事をしているのに、人が集まっているものに興味を持てなくなったら終わりだと思っています。並んでいる人がいたら、何があるかわからないけど、並んでみよう!と思うくらいでないと。時代の匂いを嗅ぎに行くと言うか、人々の興味を動かしているものを見るのが好きで、そういった意味でも現場へ行きたくなります。
今ではラジオの仕事も落ち着いたので、CM制作などを担当してラジオ業界の活性化に努めています。

 弾き語りの苦労は、CMソングに開花。

ラジオの番組の合間で流れるCMソングなども制作しています。初めて制作したCMソングは高校生の時で、その当時から良く楽器店には足を運んでいました。中学3年生の頃からフォークソングを弾いたり、オリジナルで歌を作ってライブをするなどの活動をしていました。
70年代のフォークソングを中心に弾き、聴いた人からいいね!とほめられて嬉しかったですね。高校1年生のとき、友達と2人で300人ほど入れる福岡市民会館小ホールを貸し切ってライブをした事もありました。そんな経験があって、良く通っていた楽器店の方に頼まれていないのに勝手にCMソングを制作すると、意外にも気にいっていただきFM福岡で放送してもらいました。その快感がわすれられず!?今では会社経営者の方から「うちの会社のCMソングも作ってほしい」と頼まれて、ウクレレを片手に「こんな感じでどうですか?」とCMソングを作ったり、福岡のことを歌詞に歌を作ったりしています。

昨年は、CMソングも入ったオリジナルCD『おかはち屋台』を作りました。他にも父のことを歌詞にした歌も作りました。大工をしていた父は昔、何人もお弟子さんを雇って仕事をしていました。忙しかった父に代わり、そのお弟子さんたちに遊んでもらっていました。最初は父へ向けて本を書こうと思ってテープに内容を入れていました。しかし、それを書き起こせず、歌にしました。

 これから先のこと。

今は、育ててもらった福岡の町へ恩返しがしたいと思って仕事をしています。ケアハウスなどで歌うことがありますが、聞いてくれる人達が喜んでくれることが一番嬉しいです。 ある時、歌いに行ったケアハウスでのことです。その日も利用者の人たちと一緒に歌って笑って楽しい時間を過ごしました。帰る用意をしていた時、利用者の人からお礼にと渡されたものがありました。布に糸で細かい模様が刺繍された作品で、見ただけでとても手をかけて作ってあることがわかりました。時間をかけて作られたのだろうと思い、そんな手の込んだ作品をお礼にと言われて、涙が出るほど嬉しかったですね。今でも飾ってあります。これからもそんな周囲の人に喜んでもらえる活動を続けていきたいですね。

これからは、ウクレレを弾きながら、福岡、博多の街の歴史を語るボランティアガイドになりたい、思っています。地元の人達と知り合いになれるのが楽しいし、業界人とは違う話をたくさん聞けるのがいいですね。

他にもまったく違う業種に人が集まる会合にも参加しています。ひとりで仕事していると世界が広がらないので、いろんな人に会いたくなります。
福岡でボランティアガイドをするなら英語と韓国語を勉強しようとか、60歳になったらマラソンを始めてみようとか、これからも積極的に良い意味で貪欲に活動していきたいです。

HP、ブログ「おかはち屋台」はこちらから

ありがとうございました。
平成28年1月6日取材

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